★春が来る前に | 手のひらの中のアジア

★春が来る前に

北パキスタンの冬/Pakistan

この3ヶ月ほど、パキスタンの雪深い奥地、いくつかの小さな村を訪問し滞在していた。

あっという間の毎日だった。


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「Hiro going, Everytime snow snow.」


ヒロが出発しようとすると、いつも雪だね。


片言の英語を並べ、シャプリは空を見上げながらなんだか嬉しそうに言う。


「そうだね、確かに」


彼女の横に並んで同じように空を見上げていた僕は、苦笑いしてうなずく。


雪の中、どこかへ出かける支度をしていた兄のアシフが話を聞いていたのか、外に出てきて僕に言う。


「みんな、行ってほしくないって思ってるんだよ」


片方のほどけた靴紐を結び直しながら、しゃがみ込んだ姿勢のまま彼は僕の方を見上げる。


「Everybody likes you. Everybody loves you.」


照れくさいながら、ありがとう、と返事をした僕に彼は微笑みを返す。そして靴紐を結び終えると立ち上がり、つま先で片方ずつトントンと軽く地面を蹴るようにして感触を確かめた後、小口の門を開けて外へ出ていった。


シャプリの方を振り向くと、彼女はまだじっと空を見上げたまま黙って静かに立っていた。音もなく降りしきる雪が、見上げている彼女の顔に次々と舞い降りて、色白い頬の上で雫になって滴り落ちる。それを気にする様子もなく、しばらくして彼女はおもむろに口を開く。


「日本もこんなふうにたくさん雪が降る?」


「いや、僕の街はそんなに降らないよ」僕は答える。「10センチも積もったら、みんな大騒ぎ」

少し驚いたような顔をして彼女は僕の方を見る。


「じゃあ、あなたのお父さんとお母さんがこれを見たらびっくりするね」


「でも、うちの両親の生まれたところは、たくさん降るよ。この村と同じくらい」


「今は別の場所に住んでるの?」


「もう何年も前、今の場所に引っ越したから。シャプリが生まれるよりずっと前のこと」


ふうん、と彼女はうなずき、地面に積もった雪を手にすくいとって軽く握り、それから遠く前方に放り投げる。


「雪は好き?」


彼女は再び同じように雪をすくいとって雪玉を作りながら僕に言う。「私は大好き」


「日本にいる時はあまり好きじゃないけど、ここは好きかな」


「この村が好き?」


「もちろん。それからこの家族が好き。親父さんも母さんも兄弟たちも親戚も友達も、みんな。それから・・・・・」


「それから?」


雪玉を握るために動かしていた両手を止めて、不思議そうな目をして首をかしげ彼女は僕の顔をのぞきこむ。


「特に、シャプリのことが」


いたずらっぽく言った僕に、彼女はとっさに手に持っていた雪玉を顔めがけて投げつける。その後立て続けにいくつもいくつも雪玉を作っては投げてくる。僕も同じように投げ返す。そのうち、本格的な雪合戦の様相を呈してくる。いつものパターンだ。この家の兄弟たちともよく雪合戦をした。雪上プロレスもした。僕も彼らもけっこう本気だった。晴れた日には少し遠出をして一緒に別の村を歩きまわったりした。時々は、屋根の雪かきをしながら、歌合戦や踊り合戦をした。おかげでこの土地の言語で丸々一曲を歌えるようにもなった。ただそれ以降、近所から客人が訪れるたびに、僕はリクエストに応えてその歌を毎日のように披露するはめになってしまったのだけれど。


シャプリは呆れて僕によく言った。


「ヒロは、まるで子供みたい」


いつも弟たちと一緒になって服を破くほど戦ったり、歌ったり踊ったりして。I am big sister.You are small boyだ、と。ひとまわり以上年齢が違う子にそう言われては、頭があがらない。


北パキスタンの冬/Pakistan

訪れた当初は、こんな雪深いところ早く出たいと思っていた。出発しようと試みるたびに雪のため交通機関がストップした。早く雪がやんですべて溶けてくれればいいのにと何度も思った。でも日が経つにつれ、いつのまにか気持ちはまったく逆のことを願うようになっていた。 このまま雪がやまなければいいのに、と。


陳腐な願いだ。降りしきる雪は、そう長く続くはずもない。そんなこと、僕だけじゃなく、村人は誰もが知っている。親父さんも言っていた。例年、2月の半ばを過ぎたらもうそんなに雪は降らないと。おそらくこれが最後の大雪なのだろう。再び空に晴れ間が広がった時、それが僕の旅立つ時であり、別れの時だ。そしてやっぱり当たり前のようにその日はやってくる。


屋根からドサドサっと雪の塊が滑り落ちる音で目が覚める。窓のカーテンを引くと、目の前の屋根からぶら下がる数本のつららが目に入る。まだ空は薄暗さを残していたけれど、雪はやみ、雲の姿もなく、気持ちよく晴れ渡りそうな一日を予感させる最後の朝だった。


朝一番のジープで僕は村をあとにする。その時間、いつもはまだ寝ているはずの者たちまでもが起きて、家族全員で見送りをしてくれた。再会を約束して抱き合い握手を交わした兄弟たち。親父さんと母さんの潤んだ瞳と、優しく頬にキスしてくれた後、ついに泣き崩れてしまったシャプリの姿をそれ以上見ていられなくて、さっと振り向いて僕は歩き出した。もう何度も繰り返してきた出会いと別れなのに、胸の奥の方がひどくズキズキと痛んだ。まるで鋭く尖ったつららで心臓を何度となく突かれているみたいに。


幹線道路に出てバスに揺られている間も、空虚な気持ちのまま、僕はぼんやりと車窓を眺めていた。ここに居てほしいと言ってくれる人たちがいて、そこに居たいと思う自分もいて、それでもそれらを振り切って好きになった土地を去り、またどこかへ行く。そうやって僕は、いったいどこへ向かおうとしているのだろう。


3ヶ月前に通った同じ場所の景色はだいぶ様変わりしていた。周囲の山々を覆っていた雪が溶け始めて山肌があらわになり、不毛だった茶褐色やグレーの大地には緑の草木が芽生えている。寒々しかった枯れ木は新たな葉をつけ、場所によっては色鮮やかな花々がちらほらと咲き始めている。街の露店には、ブドウ、オレンジ、リンゴ、メロン、ナシ、ザクロ、スイカ、イチゴ、といったこれまた色とりどりのフルーツが並ぶようになった。大都市の街は、世界各国からの旅行者たちで溢れごった返している。


目に映るすべてのものが色濃くなっていく。


ある街でガイドブックを片手に大きなバックパックを背負った日本の学生パッカーたちの姿を多く見かけた。

4月から新たに社会人生活が始まる人も多いのだろう。


「今夜の便でお先に日本に帰ります。4月からは社会人っすね」

「お互い忙しくなりますねえ。いやあ、ひとまずは長旅おつかれさまでした。気をつけて」


そんな会話をしている彼らの声を耳にして、ああ、もう春か、とふと思う。


2009年、春。


僕にとっては旅に出てから5度目の春だ。


そして僕は日本を離れたアジアの地に今もこうして立っている。


まだ癒しきれない胸の痛みを抱えたまま、もうすぐこのアジアの地にも、再びうだるような熱気に満ちた酷暑の季節がやってくる。


Juicy Fruit/India